Episode.0
双蛇ノ縁
環林檎
スクロールして物語を始める
八月の夕暮れ。ひぐらしの物悲しげな声の響く中、滝野縁は武具の手入れを行っていた。血のような赤い夕焼けが、彼女の端正な顔を照らしている。
ー肥前忠広、この刀名刀だが持ち手を選ぶ…。血を欲して底光りする刃。脇に置く鞘は血桜、妖気を放つ。
縁はただ静かにそれらと対峙する。
土佐守として、四国総鎮護として、故郷を守るようになってから軽く100年猶予年。しかし近年心を悩ますことがある。ーー陰陽の気の乱れである。
陰陽の気とは、大地を巡る生命の気。それは大陸からの波。初めは小さなものであったが、今では大地の脈動となってわかるものにはわかるまでになっている。
ー曲がりなりにも世は平和になった。そんな時にこの異変。これは私が動くべき時なのか…分からない…ー
縁は悩む。世に幾人もいない強者の一員として。
「ガァアーガァアーガァアー」
ふと聞き覚えのある声がして、縁は空を見上げた。そこには烏がいる。しかしよく見ると脚が3本あり、そこらの烏より3周りほど大きい。縁は刀をしまい、右腕を差し出す。
「おいでくだされ!」
烏は一回り夕空を回ったあと、縁の腕に泊まる。
「お久しゅうございます。神使どの。」
「良い、苦しゅうないぞ縁。帝よりお召しがあった。急ぎ支度をし、明日にもここを出立せよ。」
「御意。仰せのままに。急ぎ支度いたしますゆえ、八咫どのはごゆるりと休まれよ。」
縁はひとまず、何もかかっていない衣桁に八咫烏を止まらせた。
「お主、相変わらず田舎に住んでいるな。山鴉どもがうるさいわい。」
首に水晶を身につけている八咫烏は、縁に悪態を着く。
「もう人混みは飽きました。遠路はるばるありがとうございます。すぐにでも酒と肴を準備させますゆえ。」
縁は奥から黒檀の止まり木を持ってきて、床の間のある部屋に置き、八咫烏をとまらせた。そして台所に向かい、声を張る。
「八助、お留、客人だ。八咫烏どのだ。鮎と特製のあか牛の干し肉を準備しろ。後、酒を琉球切子に注いで一緒にお出ししろ。あのお方は酒豪ゆえ、一升瓶で土佐鶴と桂月…地酒の古酒を何本か用意しておいてくれ。」
「まぁ縁様。八咫烏様ということは都からお呼び出しでも?」
老女のお留が驚いた様子で問う。
「あぁ。明日にも出立せよとのおたしだ。もちろん、明日の朝出る。留守を頼めるか?」
お留はしかと心得た様子で頷く。
「もちろんですき。ちょっとーーーあんた、守木村長の所へちょっこり走ってきて。縁様のことを伝えてきてくれんかね?」
お留は旦那である八助を呼ぶ。
「ほいほい。最近縁様が陰陽?やかなんかが悪いといいなさっておったが、その件やろうかねぇ。式神さんらぁは全員連れていかれますか?」
八助は紙とペンを持ち出す。
「それと縁様、村長に一筆書いてやってくだせぇ。」
縁は和紙にサラサラと言伝を書きながら、
「どうせそんなところだろうさ。式神は白曜、黒曜、アオイ、ウスハ、稲ちゃんを連れていく。あとの者は引き続き村と堰など要所要所に守りにつける。」
と答えた。
「なるほど、少数精鋭というところやおか。そんなら、ちょいと守木んくに使いに行ってきますき。」
八助は勝手口から、小走りで出ていった。
お留は、
「縁様が留守にされると、子供らぁが悲しみます。いつ頃まで留守に…なんて、分かりませんもんねぇ。」
お留が手早く準備をしながら、愚痴をこぼす。
「全くだ。腹黒どもの巣窟にはコリゴリだってのに。まぁ、さっさと済ませて帰ってくるさ。さ、八咫どのに文句を言われる前に持っていってやれ。あとは任せる。」
そう言うと縁は自室に戻った。
…お前たち、聞いていたな。…
…はい。主よ。…
…これからひと仕事ある。休みは終わりだ。心せよ…
と心の中で呼びかけた。
縁は空間術式の中に必要なものがあるかどうかチェックする。前回に旅に出てから特に何も変化は無い。空間術式の中は時が流れないまま。これだけ便利なことは無い。
その後、縁は文机の隣の引き出しから、豪華な装飾の宝石入れ(40cmほど)を取り出す。蓋を開けるとオルゴールが流れ始める。中にあるのは、血のように紅い、いわゆる血赤珊瑚と言われる珊瑚の簪。
チャラララランラン…ランラララン…チャンチャカチャンチャン…チャンチャララン……
静かな部屋にメロディが流れていく。この紅は悔恨の印、そして決意の印。縁は刀を帯びる時はこの簪もさしている。
明日この愛する土地をたつ。その先にあるものは予想もつかない。
彼女は禅を組む。無明にして夢幻。
そう、この世は不思議に満ちている。しかし不思議は得てして牙を剥く。縁はひたすら心を無にして夜明けを待つ。
夏の夜明けは早い。
…キョロロロロロロローキョロロロロロロロー…
アカショウビンの美しい鳴き声が響く。縁は静かに目を開けた。
旅装束に着替える。袴に肥前忠広と小太刀をさす。髪はポニーテールに簪を指している。頭には檜笠、背中にはお留が作ってくれた弁当をしょっている。懐には管狐の管が忍ばせてある。もちろん影にも式神が。
「では、行ってくる。」
山から朝日が昇る頃、八助とお留に見送られて自宅の門をくぐった。これからどんな未来が待ち受けているのか、彼女は知る由もなかった。
まさか、もう一度自分が世界の命運を握るなど。